2009年3月29日日曜日

監査がつまらないという方へ

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前回の謎解きです。でも、これが正解だと言うつもりはまったくありません。私の考え方だ、というだけですので、それを念頭にお読みください。

監査ってつまんないよね、という人がいます。意味がよくわからないまま見よう見まねでやっている新人くんがそう思うのならまだかわいいのですが、仕事を覚えてはじめた2年目、3年目くらいの人が、そういうことを言うのですね。近頃では、入所前にいろんな情報をかじる人が多くて、いきなりコンサルティングやりたいとか、IPOやりたいとか、パブリック・セクターをやりたいとか、そんなことを面接で言うらしいのです。何じゃそりゃ。

監査の現場では、当然のことながら、照合作業ばかりになります。ひたすら照合作業の連続です。もちろん、会社から入手したデータの整理とか分析とか、そういった作業もそれなりのボリュームにはなりますが、それとて、結局は照合作業の準備です。それだけを考えれば、あんまり面白くなさそうだなあ、と思うのも仕方がありませんが、それはその作業の本当の意味を知らないからなんですね。

何度も言うようですが、監査の本質は、記録と記録との照合・記録と事実との照合です。ですが、それは単に、照合した記録が一致すればいい、ということだけを意味するのではないのです。監査がつまんないと思うのは、そのことに気づいていないからです。漫然と証憑突合をやっているだけでは、なかなかそこに思い至らないし、日々そういうことをじっくり考える余裕もないし、そういうことを指導する余裕もない、という、まさに末期症状となっているのが、監査法人の現場なのではないでしょうか。

たとえば現金実査。これは前回、記録と事実との照合だ、と言いました。しかし、単に目の前の現金を数えるだけでは、そうとも言い切れないのです。もちろん、監査人自らが現金をカウントするわけですから、そこで数えた現金は、確かにそこにあったのでしょう。でも、それで全部ですか?と尋ねられたらどうでしょう。実査しただけでは、「それで全部かどうか」はわかりません。監査人は、会社の担当者に依頼して、現金を保管している場所に連れて行ってもらうか、あるいは持ってきてもらうのが普通です。監査人が、現金の隠し場所を捜索する、なんてことはしません。じゃあどうするか?

通常、「これですべてです」ということ(これを網羅性といいます)を証明することは、非常に困難です。監査の難しさはここにあります。「これですべてだろう」と言えるレベルまで、ありとあらゆる記憶と知識と記録を収拾し続けるしかありません。先の現金実査の例で言えば、会社の担当者に、現金は経理で保管している小口現金だけですと言われて数えておしまいでは、後に記録と照合すべき事実の収集作業としては足りないわけです。

そのとき、たとえば、営業マンがお客さんのところへ行ったときに現金や小切手で集金してくることがある、という事実があったとして、監査人がそれを知っているのと知らなかったのとではエライ違いです。知っていれば当然、「昨日集金してきた売上金はどうしました?」と聞くべきところで、昨日のうちに銀行へ預け入れました、という答えが返ってきたら、昨日付けの領収証の控と預金通帳を突合して、現金を数えている時点ではすでに売上金は銀行に預け入れられていたことを確かめ、ようやく収拾すべき事実が揃う、ということになります。

ここで、収拾すべき事実が揃う、と書きましたが、実は、監査人が知らない事実がまだあるのかもしれませんし、そうでないかもしれません。たとえば営業マンが夜遅く帰社してきて、経理が帰っちゃってたら集金してきたお金はどうするのですか?などという質問が浮かぶか浮かばないか、これはもう監査人の経験とセンスに頼るしかないのですね。そしてそういう情報をいくら仕入れても、網羅性を完全に証明することはできず、どこまで行っても「だろう」が取れることはないのです。ですから、どの程度の情報を集めて確かめればよいか、作業をどこで打ち切るのか、これも、監査人の経験とセンスに頼るしかありません。

この例一つを取っても、会社がどういう活動をしているのかをできるだけ広く浅く知っておかなければ、監査が成り立たないということがわかると思います。会計監査なのになんで営業に話を聞くんだろうかと不思議に思われていた方はたくさんおられるのではないかと思いますが、その主な目的は網羅性の確保なのです。

それはこと監査人に限った話ではなく、会社内の経理部門、内部監査部門においても、同様のことが言えるのではなかろうか、と思うのです。数字だけ追いかけても何も見えません。会社の商売がわかって初めて、数字が意味を持つのです。そういう視点で仕事に当たれば、監査がつまんない、経理はつまんない、という言葉は出てこなくなるように思います。

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2009年3月21日土曜日

監査の本質(その2)

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前回の続きの前に。

前回の前置きで、監査報酬を企業だけが負担しているのは不公平、ということを書きました。それに関して、ふと思いましたが、株主に負担させようと思えば、配当金から控除すればよいのです。その場合、配当金から控除した額は剰余金から支払われ、残額が監査報酬として費用計上されることとなります。我ながらGood Ideaだと思ったのですが、問題は業績が悪くて配当を見送ることとなった場合ですね。控除したくてもしようがないうえ、それでもなお剰余金から支払ったとしたら、その部分は費用計上されないし税務上の損金にもならないし。いや、そもそも配当利回りをキャッシュ・フローで計られたら、手取りが元の水準になるような配当を期待され、結局は企業が負担しているのと変わらなくなりそう。。。そう簡単には行きそうにありません。

さて、また前置きが長くなりましたが。前回は、監査の本質は2つあって、それは記録と記録との照合、もう一つは記録と事実との照合、であり、財務諸表から証憑までの道のりは、記録と記録との照合の連鎖で成り立っている、という話でした。さてそれでは、記録と事実とが照合されるケースとは、どのような場合でしょう。

いちばんわかりやすいのは、現金です。これは、モノがあって、実際に触れます。数えればいくらあるのか、だれでもわかります。こんなにわかりやすいのなら、いっそ監査人が自分で数えればいい。そう思うのは自然でしょう。実際、彼らは実査(=監査人が自ら現物の数量をカウントすること)が大好きです。だって、こんなに簡単に残高を押さえられる作業はそうそうありませんから。

さて、ここまで読んで、どのように感じられましたでしょうか?なんだ簡単じゃん、それだけ?と思われる方もおられるかもしれませんし、何か腑に落ちないと思われる方もおられるでしょう。感じ方は人それぞれです。当然、この話はこれで終わりではありません。ご興味のある方は、次回まで、いろいろ考えてみてください。

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2009年3月18日水曜日

監査の本質

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前回は、監査のなりたちのようなお話を書きました。こういう話は、すでに監査が社会的制度として導入されている現在では、まあ後付けの理屈のようなものです。監査を受ける側である企業が監査報酬を支払うのはなぜか?という疑問に対する説明としてよく使われます。ですが、本当に監査を必要としてその報酬を支払っている企業はどれだけあるのか。。。前回の最後に、監査人の使命は、会社の利益だけを追求するのではなく、ちょうどいいバランスを探すことだ、と書きましたが、そうすると、企業だけが一人で支払っているのは不公平だ、とも言えます。そういう意味で、どの経営者も、ある程度「仕方がない」と思いながら監査報酬を支払っているのではないかな、と想像できます。

さて、前置きが長くなりましたが、今回からは監査の技術的な事柄を書いてみようと思います。

いきなりですが、監査の本質ってなんだと思いますか?私は、監査とは以下の2つしかないと思っています。

・記録と記録との照合
・記録と事実との照合

監査とは、財務諸表が正しいことを証明することです(と書いてしまうと、「正しい」「証明する」という言葉が引っかかりますが、もう気にせずこのまま進むことにします)。財務諸表とは、会計記録の集積です。この集積された記録が正しいと言えるためには、その集積過程を追いかける必要があります。勘定科目ごとの明細があって、その明細ごとのさらに明細があったり、総勘定元帳や補助元帳があったりして、さらに元帳の仕訳一本一本に伝票や証憑があります。こうしてどんどんブレイクダウンしていくのですが、それはまさに、「記録と記録との照合」の連続なのですね。

この続きは次回で。

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2009年3月9日月曜日

会社が監査を受けるのは

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だいぶ前のエントリーで、監査の進め方の話を書いた記憶があります。一般の方は、そもそも監査って何なの?何やってんの?と思っておられることでしょうから、そのあたりから説き起こしてみようかと思います。なお、ここでは私の印象をできるだけ分かりやすく書くことにしますので、学問的・専門的にちょっと違うんじゃねーの?と思われる箇所も出てくると思います。なので、専門家の方々は大目に見てください。今のうちに予防線を張っておきますw

経営者は自分の会社の数字を、会社にお金を出してくれた人たちに示して、会社の置かれた状況を説明する義務がある、というのいうのは直感的にお分かりになるかと思います(この「直感的」というのが大事です)。これを、アカウンタビリティ、などといいます。最近はこの言葉もすっかり有名になりましたね。こっちも説明しやすいw

さて、経営者にアカウンタビリティがあるのは分かるんだけど、自分とこの数字を正しく示してくれるとは限らないでしょ、中には嘘つきだっているんじゃないの?という、経営者に対して不信感を抱く人がおります。まあ当然といえば当然です。そんなに簡単にお金をポンと誰かに渡して、これを元手に儲けてくれ、なんて言う人はいません。ホントにこいつは信用できるか?と思うのは当たり前です。

かといって、自分が金を出してやろうかと思っている会社に行って、「経営者に会わせろ」とか「お前ら本当に信用できるのか?」などと騒いでしまっては基地外扱いされて放り出されるのが関の山です。そんなわけで、あの会社は本当に信用できるか調査してくれ、ということになるわけです。それが興信所調査というやつです。わが国には二大興信所(帝国データバンク・東京商工リサーチ)があるおかげで、非上場企業の情報を、かなり広範囲に入手することができます。ムーディーズのような格付会社と違い、情報がきめ細かい印象があります。

ちょっと脱線しましたが、さて、お金をもらうほうだって積極的にお金を集めたいでしょうから、会社の数字を積極的に開示しようとするでしょうし、その数字が信用できなきゃ調べてもらうことだってありうると思います。でも、この人に調べてもらえばみんなが信用する、そういう人たちがいれば便利ですね。それが会計監査人であり、通常、公認会計士がその役割を果たす、というわけです。

そういう意味で、監査人には、その資質として倫理的側面が強く求められるわけですが、そういった専門的職業は会計士以外にない、稀有の存在だというのが、八田先生(・・・チョビ髭の先生)のお説です。確かに弁護士を思い浮かべてみればわかるとおり、依頼主と専門家(=弁護士)との関係は1対1で、弁護士は専ら依頼主だけの利益を追求しますが、監査人としての会計士は、会社の利益だけを追求するのではなく、いわば、ちょうどいいバランスを探す作業だ、ということができます。なので、これは社会的な「制度」として初めて機能します。なぜなら、本来は社会全体が負担すべきコストを会社が代行して負担しているからです。

それでは次回まで。

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2009年3月1日日曜日

販路を限定する理由

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久々のエントリーです。

今、私が気になっていることは、

・みすず学苑の電車内広告
・「科学する麻雀」とつげき東北著
・「新宿鮫」シリーズ/大沢在昌著
・ワコールやユニ・チャームなどに就職しようとする男の心理状況
・第58期王将戦、第34期棋王戦の行方(なめかた、ではない)

などですが、いずれも会計や監査とは無関係であるため、ここには書けません。残念ですが割愛いたします。

というわけで、前回の続きです。

某S社(もう名前を伏せる必要もないのですが一応)ご担当者様からお返事をいただきました。ありがとうございました。
その内容は、このひとことに集約されています。

恐れ入りますが、弊社商品の販売方針や企画意図などにつきましては、ご案内がいたしかねます。

要するに、「企業秘密なので内緒です。」ということですね。

これで引き下がってしまうのでは面白くないので、例によって勝手に想像力を働かすことにします。

ここでの問題の所在は、「なぜ学校教育用などとして、自ら販路を限定しているのか」ということです。実は、これに対する答えは非常にシンプルです。つまり、「販路を限定したほうが、限定しない場合に比べて、より利益が増大する」からです。なので、次は「販路を限定するとなぜ利益が増大するのか」を考えることになります。

さて、こういう場合、パターンは二つしかありません。一つは、販路を限定することによって、その、販路が限定された商品それ自体の利益が増大するパターン(利益追求型)。もう一つは、販路を限定した商品の利益はあまり高くはない(場合によっては損失となる)が、それによって他の商品の利益が増大するパターン(損して得取れ型)です。

で、今回の電卓の場合、おそらく利益追求型であろうと思われます。なぜなら、特定の商品を学校教育用に限定し、市中に流れないようにすることによって、メーカー主導で値付けすることができるからです。

学校法人や自治体などに電卓を卸すにあたって、市中で販売されている商品をそのまま流用しても、電卓の機能的な部分で不都合はないと思われますし、検定試験で持込が認められていない機能が指定されているのであれば、そういった機能がない商品を既存のラインナップから選んでもいいわけです。でもS社はそうしなかった。それはおそらく、個々の取引相手との価格交渉が、市中で一般的に付されている価格に引きずられてしまうから、でしょう。まとまった数量を注文するのだから少し安くしてくれ、といった要求もあるでしょうから、下手をすると市中で販売するより収益性が悪くなる可能性があります。これを、教育用に販路を限定することで、利益率を確保しようというわけです。

また、学校教育用に限定して販売する形態は予測がつきやすく、マネジメント・サイドとしては実に都合がいい。学校が相手なら、毎年新入生が入ってくるし、学年によってコロコロと違うメーカーのものに変えるわけにはいきませんから、毎年一定数量を買ってもらえる可能性が高くなります。いわば顧客の囲い込みですね。

そして実は、まったく同じタイプで型番だけが違う商品が、学校教育用以外のラインナップとして、すでに販売されています。ですから、もし、私のようなこだわり変人がいたとしても、それを購入すればよく、わざわざ学校の通販から買う必要もなくなっています。でも、なんだかおかしいと思いませんか?そう。だったら学校教育向けに限定するのをやめればいいじゃないか。

でも、そういうわけにはいかないのです。学校や自治体には、「これは学校向け限定商品なのです」と言えなくてはいけないのです。決して、同じものが市中から購入できてはいけないのです。そうしないと、市中品が相見積りの競争相手になってしまって、価格を維持できなくなるからです。あくまでも、市中品とは型番を変える。違う商品という扱いにする。それが戦略なのです。

以上は、あくまでも私の勝手な想像です。ひょっとして、買い手がだまされているんじゃないか、などと思ってはいけません。だまされてなんかいません。ご安心ください。だって、それを承知で買っているんですから。

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